2011年6月29日

仲代達也主演「人間の条件」を観ましたよ。


 この映画は、第6部まである長い長い作品で、私は20代の頃、名古屋の映画館でオールナイト上映で一挙にみました。その日とても疲れていて、頭が痛かったのですが、映画の面白さに夢中になり、観おわったときには頭はすっきりとし、深い感動に包まれていたことを覚えております。

 その映画を今度は、4回に分けてみる機会があり、今日ようやく全編を見終わりました。40年くらい前の感動を確かめたくてもう一度見たわけですが、期待は裏切られませんでした。

 原作者の五味川純平も、監督の小林正樹も、軍隊の経験者で、その理不尽さや、戦争の悲惨さや、愚かしさを、リアルに伝えてくる。日本人が経験したこの恐ろしい戦争の実態を、この映画を見ることで、追体験できたような気がしました。日本人の財産として大切に伝え続けなければならない映画だと思います。


 昭和18年から20年の間、満州からソ連の捕虜収容所を舞台に、弱いもの強いもの、要領の良いもの、ずるい者、残虐な者、非人間的な状況のなかで、それでも人間であり続けようともがくもの。その中で、人間とはなにか、人間として生きるとは何かを主人公梶の生き方を通して問いかけてくる。そこには、現代を生きる私たちにも共通する問いがある。

  若き日の仲代達也が、なにしろカッコイイ。中村玉緒が、10代の初々しい少女として登場し、あまりに可愛いので、驚きました。あんなにも変わるものなんですね。

                                            幸

 

2011年6月28日

村上春樹のカタルーニヤ国際賞スピーチに感動


 村上春樹が、6月9日に、スペインで語ったスピーチの全文を読んで、感動しました。この度の、震災と津波、特に原発事故を巡って深く考え、「我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません」というところに、いきついたようです。
 確かに、これまで日本では、あまりに「効率」と「目先の利益」だけを追うことに忙しく倫理や規範など見向きもされない時代が続きました。この3.11を機に、何かが決定的に変わるでしょう。それが、どう変わるのか、村上スピーチには、そのヒントになるものがいっぱい詰まっていると思われます。

 以下、簡単に紹介します。

原子力政策を、安全神話で言いくるめて推進してきた電力企業や政府に対して真剣に腹を立るべきだが、同時にこれまでそれを黙認してきた我々自身をも、糾弾しなければならないだろう。

 我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民なんだ。1645年の広島長崎で、20万を越す人命が失われ、生き残った人の多くがその後、放射線被爆の症状に苦しみながら時間をかけて亡くなっていった。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三ヶ月にわたって放射能を撒き散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。

 今回は誰かに爆弾を落とされたのではなく、我々日本人が、自らの手で過ちを犯したのです。

 我々が戦後一貫して求めていた平和で豊かな社会は、「効率」重視によって、損なわれてしまった。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代る有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだった。
 我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 損なわれた倫理や規範の再生を試みる時、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 結構長くなってしまいましたが、以上です。   幸

 


 

2011年6月27日

中村哲さんにあらたな試練が・・・。


 中村哲さんの講演会で、大勢の方がカンパを寄せてくださったので、それも合わせて、送金したところ、お礼のメールに付け加えてペシャワール会のスタッフの方から以下のメールが、送られてきました。

 
 下記は中村医師からの現地報告からの抜粋です。幾多の困難を乗り越えてやっとここまでたどり着きましたが、またか?と唖然とするばかりです。

「去る6月2~3日に吹き荒れた砂嵐は、50℃以上の熱風を伴い、並みの規模ではなかったようです。
このため、第一試験農場は育苗場の一部を除いて、ほぼ開墾地30ヘクタールが壊滅、ガンベリ横断主水路・分水路はすべて砂に埋まりました。
現在、必死の復旧作業が続けられていますが、今年のスイカ収穫は全滅、田植えは不可能となりました。
改めて自然の厳しさを知りましたが、防砂林の重要性を再認識、今年の秋に、植樹大攻勢となります。
現在幹線用水路が復旧しているものの、浚渫作業に追われ、今年の収穫は望めません。

熱風でかなりの苗木も傷んでおり、ドライフラワーのようになった柳もあります。ガンベリ沙漠開墾は、一時後退します。三歩前進・二歩後退ですが、嵐の威力に悲観論も出ております。それこそ想定外の連続ですが、何とか見通しを立てたいと思います。
現地では死活問題です。開墾事業放棄の声もあがっていますが、工夫と時間があれば可能です。何年かかってもやります。」


 私たちは、5月28日に、講演をお聞きし、素晴らしい活動をなさっていることに感動し、千円か2千円(2万円出されたかたもいたそうですが)のお金をカンパし、これで万々歳、一件落着の気分でいたわけですが、その4日後には砂嵐に襲われ、またしても自然の猛威に立ちすくみ、しかも諦めずに、必死に復興に努めていらっしゃる中村医師の姿があります。なんとか、引き続き支援して行きたいものです。        幸

 

2011年6月26日

映画「六ヶ所村ラプソディー」が、上映中です。


 反原発のドキュメンタリー映画として、有名なこの映画。自主上映でひろがっていたようですが、観る機会がありませんでした。今日名古屋駅裏の、小さな映画館「シネマスコーレ」で観てきました。

 青森県の六ヶ所村に、核燃料再処理施設を作るというので、それに対する反対賛成両方の立場も含めて、考えさせられる内容でした。

 2006年に公開されたものですが、全然古くなくて、2011年の3月11日を経験したあとだからこそ、余計よくわかる映画でした。

 3.11後、テレビでおなじみになった斑目春樹さんも、反原発のために万年助手のままであったという小出裕章さんも、すでにこの映画に登場して、今とよく似たことを発言していらっしゃるのには、ビックリ。

 再処理施設反対のために、16年前に、両親の遺した土地に帰ってきて、チューリップとハーブを育て、その入場料で生活しながら、地道に、反対運動を続けている女性の姿が、印象的でした。1人からはじめ、手伝ってくれる人が現れ、冬には雪で埋まり、ヒョウに、咲きかけたチューリップをだめにされ、でも、諦めないで、しかも生きることを楽しみながら、運動を続けている・・・。

 もう1人は、農薬を使わず、米作りをしている女性。直接注文を受け、郵送するという形で、良い関係が続いていたのに、施設が動き始めると、放射線の害がないとは言い切れない。正直にそのことを、話せば話すだけ、消費者は不安になり、注文を断ってくる。

 それまで、彼女は、中立の立場に立っていた。しかし、ある人に、「原発には、賛成か反対かがあるだけで、中立の立場はないんだよ。中立といって何も言わず、何も行動しなかったら、今の状態を認めることになるのだから」と言われて、ハッとし、反対の立場に立つようになったそうだ。「中立と言って、何もしないのは、楽なんですねえ」と、しみじみ言った言葉は、なかなか重みのある言葉でした。

 いい映画でした。観ることができてよかった。     幸

   

2011年6月23日

「私の戦争体験集」7冊欲しいという電話


 昨日、電話がありました。「私の戦争体験集」7冊欲しいのだが・・・とのこと。早速家まで取りに来てくださった。

 実は、Mさんに、「5月28日空いていない?」と聞かれて、「空いているよ」と言ったら、「じゃ、講演会にいってくださいよ」と誘われて、「9条の会・尾張旭」主催の、「中村哲講演会」に参加したという。そこにおいてあった冊子に眼がとまり、カンパして1冊手にいれた。

 先日、昔の仲間と市の保養所である「あさひ園」に行ったら、そこにもおいてあった。読んでみるとなかなかいい内容なので、仲間にも薦めてみると、関心を持ってくれる人が多かったので、今日電話をしたとのことでした。

 熱田区生まれの、79歳の男性で、もう2日早く知り合えていたら、「名古屋空襲のドキュメンタリー」にも、お誘いしたのにと残念でした。

 ボランティア精神のある方らしく、「この間、テレビのBSに中村哲さん出ていたねえ」、「あの集会のとき、中村さんの本の注文リストを貰ったけど、カンパにもなるから注文しようかな思うけれど、全部注文するとかなりの額になるんで、考えている。なんせ、年金ぐらしだからねえ・・・。」

 またまた、いい人と知り合いになりました。Mさん、どうもありがとうございました。

                                                   幸 

2011年6月22日

昨日お会いした「名古屋活動写真」のホームページに訪問してみました


 昨日お会いした、森零監督に名刺をいただきました。そこで、ホームページに訪れてみようと思って、「名古屋活動写真」で検索しますと、すぐ出てきました。

 昨日、「若い頃はバイクを乗り回していたのだとか、自衛隊はぜったい必要だと思っているし、でも、戦争はないほうがいいと思っているけど・・・。だから、中立の立場で撮ります。辛い悲しいだけの映画ではなく、笑いもあるほうがいい。」いいかげんで、やばい部分をいっぱい持っているがゆえの幅の広さを持っている面白い男という印象を受けました。

 名前の「零」の由来をたづねた人に「零戦」の零です。と応えられていましたが、ホームページを見ると、零からの出発という意味もあるそうです。

 「開府四00年 名古屋の山車祭り」というドキュメンタリーを撮られて、そこから、名古屋空襲にも興味を持ったということです。46歳という、バブル真っ只中に青春時代を送った世代が、東日本大震災と原発の衝撃に向き合い、第2次世界大戦の悲惨(彼らの親の世代の少年時代の出来事なのだが)を見つめてみることは、いいことだと思います。

 私たちは、今度もまた零から考え直し、零から始めなければいけないのかもしれません。

 それにしても、インターネットはすごい。「名古屋活動写真」で検索したら、昨日かいた私のブログが、登場したのにはビックリしました。こうやって、どんどん広がりつながっていくんですね。 幸

2011年6月21日

名古屋空襲ドキュメンタリー映画撮影に立ち会う


 さて、喫茶「棒の手」に、ぞくぞくと人々が集まってきました。と言っても、例の、
「九条の会・尾張旭」発行の、「尾張旭発 未来への伝言  私の戦争体験集」に、掲載されている4人と、ちょうど同時期に、名古屋空襲にあわれた2人と、野次馬2人と私の、計9人。

 午前の取材が長引いて、少し遅くなると連絡のあった監督が、2時少し前に登場。喫茶店のマスターが、となりの部屋に案内して下さる。ゆったりとした会議室でもあり、カラオケも歌える多目的室。なかなかいい部屋がありますねえ。

 監督は、46歳。若々しく、「イケメンだねえ」という声がかかる。とても気さくな雰囲気で、軽やかなテンポでしゃべり、あっという間に、皆にとけこんでしまう所は、さすがです。休憩時間にはタバコを吸い、1日に3時間しか寝ない習慣だから、皆さんより早死にするとか、東京の幕張メッセのところで、海に向かって思いっきり深呼吸したら、喉が痛くなって、放射能を感じたとか、 私たちもすっかり友達気分で、「顔色悪いよ。せめて、タバコをやめないと・・・」なんて、言わずもがなのことを言ってしまったり・・・。

 名古屋空襲のドキュメンタリー映画を撮りたいので体験を話してくれる人を募っているという記事が中日新聞に載ったら、電話がなり続き、すでに70人の人から、連絡があったとのこと。忘れられない、遺しておきたいことなのですねえ。今日の集まりでも、最初は、聞くだけと言っていた方お二人とも、しっかり話しておられました。

 マイクとカメラを向けられ、最初の内は、緊張していた人も、話しているうちにどんどん乗ってきて、自然に熱を込めて語り始め、2時間分のテープをしっかり使い切り、まだ話したりないくらいでした。

 監督も、「よかったですよ。使えるところいっぱいありました。最高。この喫茶店いいですねえ。また、九条の会で、こんなふうに話すときあったら、呼んでください」と
喜んで、参加した方々も、とても満足した様子で、皆、「有難うございました」とお礼を言ったり、監督と握手したり、賑やかな別れとなりました。よかった!よかった!

    幸  

2011年6月20日

体に染み付いてしまった恐怖心


「どうしても忘れられないこと」を話してくださったのは、昭和6年う 

まれの女性。女学校に入学できたと思ったら、学徒動員で、行き先「愛知時計」の工場だった。

 

やはり、一部引用して、紹介させていただきます。

 

・・・「愛知時計」への空襲

 忘れもしない、69日。親友を亡くしました。彼女はその日に限って、 

「今日は工場へ行きたくない。ここから帰ってしまおうか」と言った。 

私は、「あんた何バカみたいなこと言っとるの。そんなこと言っとった 

ら、怒られるよ」という。「それにしても私今日は行きたくないもん。 

行きたくないもん」と言って何べんも何べんも集合場所から入り口まで 

行ったりきたり行ったりきたりしておったの。でも、「そんなバカなこ 

と言っとったらあかん」と私が言って、そして帰らぬ人になっちゃっ

た。私も後味の悪い思いが消えない。私は振り分けられてその友達とは 

同じ工場ではなかったのです。

 

 あの日は、おかしかった。警戒警報が鳴って、外へ待避するとすぐに、 

解除のサイレンが鳴った。今日は早かったねえと言いながら皆で工場の入 

り口まで帰ってきたら、敵機が飛んできた。飛行機の角度は45度。この角 

度だとこっちへ来るよと言っている内に、爆弾を落とし始めた。近くに、 

白鳥橋という大きな橋があって、みな物陰に隠れたいから、白鳥橋の下へ 

隠れる。そしたら、その橋を狙って爆弾を落としていく。集中攻撃にあ 

い、だいぶ沢山亡くなられた。私も背中をやられた人の返り血をあびた。 

飛行機は北へ行くから、南に逃げたが、恐くて途中にあった防空壕へ入っ 

たとたんに壕が崩れて、胸まで埋まってしまった。学徒が8人くらい埋まっ 

ていたが、親切な人が降りて来て、私たちを11人引っ張り出してくれ、 

お陰で助かった。

 

「愛知時計」は、とても大きな工場で、東京やもっと遠くからも、大学 

生、高校生などが、学徒動員で働いていたから、ものすごい数の学生が 

亡くなった(10分間の爆弾投下の間に、学徒を中心として、2068人が死 

亡)。

 

 

体に染み付いてしまった恐怖心

 

自分もその中にいて、悲惨な状況の中、命からがら逃げ回ったので、そ 

れが体に染み付いてしまって、自分が追いかけられている夢をよく見た 

し、起きていてもやっぱりダメなの。ただの恐いじゃない。年中、緊張 

していなければならない。やっぱりいかんね。自分もその中にいたもん 

だからねえ。普通ではないのよ。最近ようやく無くなったけれど、69 

日が来ると、今でも調子がおかしくなる。今でもサイレンの音はイヤな 

の。空襲警報のサイレンと同じでしょ。あれを聞くと今でも体が反応し 

てしまう。あのサイレンによって動いていたから。・・・

 

このブログに紹介した4人が明日、喫茶店に集まって、名古屋活動写真の森監督の取材を受けます。どんな展開になりますか、楽しみです。幸

 

2011年6月19日

「名古屋空襲下での子供時代」の一部紹介


  「名古屋空襲下での子ども時代」を話して下さったのは、昭和11年5月生まれの男性。怖さを知らない子供で、夜間空襲は、きれいなんてものじゃない、珍しくて面白くて、喜んで見ていたという。私の印象に残った箇所を引用して、紹介します。
・・・  ずしりと重い手袋
 まだ寒い季節だった。上飯田で焼け出されて逃げてきた人たちが、どちらに行けばいいのか決めかねて水分橋のところでかたまっていた。そこへ爆弾が直撃した。それを見に行ったとき、道端に手袋が落ちていた。まだ新しい毛糸の手編のもの。手に取ろうとしたら、ずしりと重たい。思わず中をのぞいてみた。爆弾は破裂する時、鉄を木っ端微塵にする。鋭利にとがった鉄片がヒューン、ヒューンと音を立てて飛ぶ。その鉄片で切り取られたのであろうか、人の手が入ったままの手袋だった。
家の近くの寺の本堂の前に、むしろが並べられ、空襲で亡くなった50体ほどの死体がゴロゴロ並んでいるのを見たこともある。・・・
実は、この箇所を読まれた女性が、「これを書いた人に会いたい」と言う。ちょうどこの頃上飯田に住んでいて、水分橋のところへ逃げたが、5分ほど早かったので助かったとのこと。お二人はその後出会って、お話がはずんだ模様です。幸       
     

2011年6月18日

脱原発映画上映のお知らせ


 先日、私は「10万年後の世界」という映画を見てきました。フィンランドで、使用済み核燃料を処分するために、広大なトンネルのようなものを掘り、そこに、10万年の間保管する施設を作るというものです。なんとも不気味で、気の遠くなるような世界でした。しかし、地震とは無縁らしいフィンランドで、そんな施設をつくり、冷静に人々が話し合っている姿をみると、地震大国で、使用済み核燃料の処分地もないのに、まだまだ原発を続けていこうとしている、私達日本人って、いったい何なんだという気がしました。 

先ほど、グーブログの、「愛と平和の日記」を検索したら、簡単に友人のブログにたどり着きました。そこに、今名古屋で上映中の原発関係の映画の上映の紹介がありましたので、コピーさせていただきました。

ここは、映画でもみて、しっかり考えてみなければならない時かもね。

6月17日付朝日新聞朝刊に脱原発のドキュメンタリー映画が5本上映されるという記事が載っていました。映画館は名古屋駅西口のシネマスコーレ。映画のタイトル名・上映日・上映時間は次のようになっています。

『アレクセイと泉』 6/18~6/24、6/25~7/1  12:10~13:55
『ナージャの村』 6/18~6/24、6/25~7/1 14:05~16:05
『六ケ所村ラプソディー』 6/25~7/1、7/2~7/8 10:00~12:00
『祝の島』 6/25~7/1 16:15~18:05
『ヒバクシャ世界の終わりに』 6/25~6/27、6/29~7/1 18:15~20:15
               7/2~7/8 12:10~14:10


『アレクセイと泉』『ナージャの村』は、チェルノブイリ原発事故による放射能汚染地で暮らす村人の生活を描いたもの。
『六ケ所村ラプソディー』は、核燃料再処理工場がある青森県六ケ所村や隣村の人々を描いたもの
『祝の島』は、瀬戸内海に浮かぶ島に原発建設計画が浮上し、28年間、原発反対を続ける島民の日常を描いたもの。
『ヒバクシャ世界の終わりに』は、湾岸戦争で使われた劣化ウラン弾により白血病を病んだ多くのイラクの子供達やアメリカのプルトニウム工場周辺を取材し、ヒバクの実態に迫った映画。   幸


 

「わんぱく坊主の戦争体験」紹介


「わんぱく坊主の戦争体験」は、兵隊になるのが夢で、いつもはだしで戦争ごっこばかりしている小学生5年生の話ですが、私にとってショックだった「人間そっくりの米兵」という箇所を、引用します。

 5月の夜中に、飛行機の墜落した音がした。夜が明けるのを待ちかねて、学年の小さい2、3人と一緒に早速現場へ赴いた。煙が上がっているところを目指していった。そこは、長久手の、小さな川の土手の上であった。そこには、8~10人ほどのアメリカ兵の死体が、素裸で横たえられていた。飛行機が墜落して、パラシュートで降りてきたということだった。米兵は、人間そっくりだった。それまで、米兵は、人の面を被った鬼だと教わっていた。変な話だが、子供だから殆ど信じていた。それで面を取ろうとしてつついてみたが、自分たちの顔と変わらなかった。本当の人間なんじゃないかなと思った。土手が狭いのを口実にして、死体の上をはだしで歩いて反対側まで行った。まだ温かかった。今でも足の裏にそのなま温かい感触が残っており、身震いするようで、しゃべりたくもないし思い出したくもない体験だ。

 履くものも無くいつも素足で歩き回っていたおれらとは違って、裸の米兵は、ピカピカに光った編み上げ靴を履いていた。大人の人が、「こりゃいい靴だ」と靴を脱がし始めると、他の大人も「おれもおれも」と、皆靴を取ってしまった。日本の人はこういうことをするのだと思った。(中略)この米兵たちのことは、秘密裏に処分されたと聞いた。コモにまかれて、爆弾の穴の中へ埋めてしまったとか。      幸

 

2011年6月17日

「郵便配達青年であった日のこと」の一部紹介


前回書いた「郵便配達青年であった日のこと」は、終戦の年であった昭和20年のこと。以下、内容を一部、紹介させていただきます。・・・東区の三階橋の手前で、空襲警報が出て、急いで渡ろうとしていると、学徒動員で働いていたらしい県一の女学生が、自転車台を両手でつかんで、「乗せてください!」と言った。自分は公用電報をもっている身であり、坂道を乗せては走れないので断ると、「離しません!」と力を込める。自分は自転車を降りて女学生の手をパン!と叩いて退けた。胸の名札に「加藤○○ 2年生」とあった。そのとき顔も見た。

 一目散に自転車をこぎ、堤防で這って見ていると爆撃が始まった。爆撃が終わってから、市電の電車通りを下がると、大東紡績の工場前で、よーけ女学生が死んでころがっていた。さっきの女学生が気がかりで捜してみると、「加藤」という名札をつけたまま、さっき見たその通りの顔をして死んでいた。

 「人殺ししちゃった」と思った。申し訳なくて泣いて、敬礼して帰った。

 昭和3年生まれの方の戦争体験です。 sati

 

 

2011年6月16日

「名古屋空襲ドキュメンタリー映画」作成へ


夕方、帰宅すると、「名古屋活動写真の森です・・・」という留守電が入っていました。どこかで最近聞いた名前のような気がするが、いったいなんだったのか・・・?暫らくして思い出しました。中日新聞に名古屋空襲のドキュメンタリー映画をつくるという記事が載っていたので、そこへ電話をして、わが会が作成した、「私の戦争体験集」を郵送しておいたのです。森さんは、いろいろ興味深いものが多かったが、特に4人の方に話していただきたいとのこと。「郵便配達青年であった日のこと」、「わんぱく坊主の戦争体験」、「名古屋空襲下での子供時代」、「どうしても忘れられないこと」を話して下った4人です。早速4人の方に連絡をとり、621日、喫茶「棒の手」さんで、インタビューを受けることに決りました。暫らく前まで1ヶ月も入院していた方もみえて、全員は無理かなと思っていたのですが、皆さん快く引き受けて下さいました。あの体験は、遺しておかなければという思いが強いのだと再確認させられました。1つの聞き書きが、1冊の本になり、ドキュメンタリー映画になり、という具合にどんどん拡がっていってくれることが嬉しいです。幸

 

 

2011年6月15日

「原発さよなら」東京で5万人集会を


615日付中日新聞夕刊によりますと、919日に東京・明治公園で5万人規模の「原発さよなら」集会を開催し、1千万人を目標にした脱原発の署名活動も始めるとのこと。ルポライターの鎌田慧さんらが記者会見をしたそうです。呼びかけ人は、大江健三郎、瀬戸内寂聴、坂本龍一、澤地久枝、内橋克人たち。「原発さよなら」という一点で手を結ぶ運動が、始まりそうです。

泥沼状態のフクシマを見るにつけ、何かできないかしらと思っていただけに、大歓迎です。ただ、呼びかけ人の方が、かなり高齢。もっと若い人で、たとえば田中優さん(ピースボート)なんかも反原発で精力的に講演活動しているし、若い人に人気のようだから、手をつなげないものか?子育て中の世代と連携できる運動ができるといいですね。

 集会も、東京だけでなく、同日に連動して日本各地でやれるといい。まずは、ここ尾張旭でも集会かパレードか、やりたいですね。         幸

2011年6月10日

平井憲夫さん、「原発がどんなものか知ってほしい」


タイトルの文章を、転送してくれた人があって、読んで驚きました。平井さんというのは、20年間、原子力発電所の現場で働いていた方です。そして癌になって、1997年に亡くなっています。この文は遺言のような思いで書かれたものなのです。3.11を体験した後にこの文章を読んだ私としては、平井さんがこれを書かれたときに、もっと沢山の人がこれを読んで、もっと真摯に原発と向き合っていたら・・・と思わずにいられません。「現場監督として長く働きましたから、原発の中のことはほとんど知っています」と丁寧な口調で語られる文を読んで、原発がこんなに恐ろしいものだということを、初めて知りました。

以下、簡単に紹介します。

①設計はよくても、作る現場に経験者がいない。全くの素人を経験不問という形で募集している。なにが不正工事やら手抜きかも、全く知らないで作業をしている」「原発には放射能の被爆の問題があって後継者を育てることの出来ない職場」②名ばかりの検査・検査官

③いいかげんな原発の耐震設計④定期点検工事も素人が④放射能垂れ流しの海⑤原発で始めて働く作業者に対して、「絶対安全」と5時間の洗脳教育⑥びっくりした美浜原発細管破断事故⑦もんじゅの大事故・・・「事故」を「事象」と軽い言葉に言い換える動燃。⑧日本のプルトニウムがフランスの核兵器に?世界の国がプルトニウムで発電するのは不可能だと分かって止めた。どうして日本が止めないかというと、日本にはいったん決めたことを途中で止める勇気がないからで、このことは、非常に怖い。⑨廃炉も解体も出来ない原発・・・造る時の何倍ものお金がかかり、大量の被爆が避けられない。⑪どうしようもない放射性廃棄物・・・現在は原発のゴミは、青森の六ヶ所村へ持っていっています。全部で三百万本のドラム缶をこれから三百年間管理すると言っていますが、一体、三百年ももつドラム缶があるのか、廃棄物業者が三百年間続くものかどうか。⑪原発がある限り安心できない・・・原発は働く人を絶対に被爆させなければ動かないものだ。事故だけでなく、地震で壊れる心配もあって、このままでは本当に取り返しのつかないことが起きてしまうと。これをどうしても知って欲しいのです。

 ですから、私はこれ以上原発を増やしてはいけない、原発の増設は絶対に反対だという信念でやっています。そして稼動している原発も、着実に止めなければならないと思っています。       幸

 

2011年6月 9日

ドキュメンタリー映画監督森零さん


6月9日付中日新聞の、「名古屋空襲肉声今こそ」という記事を

 

見て、「あ、同じことを考えている人がいる」と思いました。名

 

古屋市の映画監督が、名古屋空襲の体験者の証言を集めて、ドキ

 

ュメンタリー映画を製作しているというのです。「米軍機が60

 

数回来襲して町を焼き、7千8百人の命を奪った名古屋空襲。一

 

連の爆撃で最も多い2千68人が亡くなった日から、9日で66

 

年」といところを読んで、ハッとしました。戦争体験の聞き書き

 

をしたとき、その日、学徒動員で「愛知時計」で働いていた、鈴

 

木さんは、「自分もその中にいたものだから、只の怖いじゃない。

 

年中、緊張していなければならない。普通ではないのよ。最近よう

 

やく無くなったけれど、6月9日が来ると、今でも調子がおかしく

 

なる」と言っておられた。そういえば、「九条の会・尾張旭」作成

 

の「私の戦争体験集」にも、名古屋空襲関係の文章が沢山はいって

 

います。

 

 早速、記事に載っていた番号に電話して、冊子を送って読んでも

 

らい、適当な体験があれば取材して頂くことにしました。46歳の

 

映画監督の森零さんが、その気を起こしてくださったことが、嬉し

 

いです。                   幸

 

2011年6月 6日

菅総理は、原発推進派にとって都合が悪い?


原発の被害は予想を上回り毎日が綱渡りのよう

 

な状らしい。こんな大変な時に、自民党だけ

 

ならまだ分かるが、民主党の一部まで一緒にな

 

って、菅降ろしを叫んでいるのが、理解できま

 

せんでした。しかし、6月3日の中日新聞の「

 

菅降ろし』なぜ起きた」を見て、とても納得し

 

てしまいました。「菅首相が原子力政策の見直

 

し」を言い出したときから、反菅勢力の動きが

 

激化していったというのです。もともと原発

 

政策は、自公が推し進めてきたもの。責任は自

 

公や財界にあるのに、まるで自分たちの責任 

 

はないかのように、菅さんだけを責めている。

 

菅さんには協力できないという。不思議でしか

 

たがなかったが、彼らは、福島のような大惨事

 

が起こっても、自分たちの非を認めず、まだま

 

だ原発利権にしがみついていたいらしい。それ

 

で、都合の悪いことを言い出した、菅総理を引

 

き摺り下ろすということのようですねえ。中日

 

新聞さん、よく書いてくれました。おかげで頭

 

がスッキリしました。私たちもいつまでも騙さ

 

れっぱなしの、バカな国民であることをやめた

 

いものです。        幸