2011年6月20日

体に染み付いてしまった恐怖心


「どうしても忘れられないこと」を話してくださったのは、昭和6年う 

まれの女性。女学校に入学できたと思ったら、学徒動員で、行き先「愛知時計」の工場だった。

 

やはり、一部引用して、紹介させていただきます。

 

・・・「愛知時計」への空襲

 忘れもしない、69日。親友を亡くしました。彼女はその日に限って、 

「今日は工場へ行きたくない。ここから帰ってしまおうか」と言った。 

私は、「あんた何バカみたいなこと言っとるの。そんなこと言っとった 

ら、怒られるよ」という。「それにしても私今日は行きたくないもん。 

行きたくないもん」と言って何べんも何べんも集合場所から入り口まで 

行ったりきたり行ったりきたりしておったの。でも、「そんなバカなこ 

と言っとったらあかん」と私が言って、そして帰らぬ人になっちゃっ

た。私も後味の悪い思いが消えない。私は振り分けられてその友達とは 

同じ工場ではなかったのです。

 

 あの日は、おかしかった。警戒警報が鳴って、外へ待避するとすぐに、 

解除のサイレンが鳴った。今日は早かったねえと言いながら皆で工場の入 

り口まで帰ってきたら、敵機が飛んできた。飛行機の角度は45度。この角 

度だとこっちへ来るよと言っている内に、爆弾を落とし始めた。近くに、 

白鳥橋という大きな橋があって、みな物陰に隠れたいから、白鳥橋の下へ 

隠れる。そしたら、その橋を狙って爆弾を落としていく。集中攻撃にあ 

い、だいぶ沢山亡くなられた。私も背中をやられた人の返り血をあびた。 

飛行機は北へ行くから、南に逃げたが、恐くて途中にあった防空壕へ入っ 

たとたんに壕が崩れて、胸まで埋まってしまった。学徒が8人くらい埋まっ 

ていたが、親切な人が降りて来て、私たちを11人引っ張り出してくれ、 

お陰で助かった。

 

「愛知時計」は、とても大きな工場で、東京やもっと遠くからも、大学 

生、高校生などが、学徒動員で働いていたから、ものすごい数の学生が 

亡くなった(10分間の爆弾投下の間に、学徒を中心として、2068人が死 

亡)。

 

 

体に染み付いてしまった恐怖心

 

自分もその中にいて、悲惨な状況の中、命からがら逃げ回ったので、そ 

れが体に染み付いてしまって、自分が追いかけられている夢をよく見た 

し、起きていてもやっぱりダメなの。ただの恐いじゃない。年中、緊張 

していなければならない。やっぱりいかんね。自分もその中にいたもん 

だからねえ。普通ではないのよ。最近ようやく無くなったけれど、69 

日が来ると、今でも調子がおかしくなる。今でもサイレンの音はイヤな 

の。空襲警報のサイレンと同じでしょ。あれを聞くと今でも体が反応し 

てしまう。あのサイレンによって動いていたから。・・・

 

このブログに紹介した4人が明日、喫茶店に集まって、名古屋活動写真の森監督の取材を受けます。どんな展開になりますか、楽しみです。幸

 

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